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2008年度 第2回講演会

日時 2008年11月19日(水)正午〜13時30分
場所 ホテルオークラ札幌B1「桃花林」
講師 北海道新聞社編集局編集本部委員 辻岡 英信 様
演題 「新聞は生き残れるか」

廣川会長開会御挨拶
 
 本年7月の第1回講演会に続き、本年度2回目となる「講演会」を開催しました。
 講師の辻岡氏からは、インターネットの利用者が急増する一方、新聞の発行部数が減少傾向にある現状から「新聞のビジネスモデルは破綻した」という論者もでるなど、たいへん厳しい環境下にある「新聞」について、「地域限定という市場構造の中でひとつの経済主体として生き残れるか」、また「インターネットという異質で新たな媒体との競合の中でメディアとして生き残れるか」、と問い、そして、新聞のメディアとしての優れた特性の中にその可能性を探るというたいへん興味深いお話をしていただきました。

辻岡講師御講演
 
 今、新聞が、なすべきことはなにか。
 氏は、特に若い人たちの中で新聞への信頼が大きく揺らいでいるのではないかと危惧され、新聞は「強きをくじき弱きを助ける」の原点に立ち返るべきと主張されます。
 「正しい情報はやはり新聞から仕入れる」と思われる存在になるように読者の信頼をいかにして取り戻すか。
かつて台頭する電波メディアとの間で、活字媒体としての特性によって見事なコラボレーションを実現してきたように、そうした信頼の先に、今また「インターネット」との間の新たなコラボレーションの在り方が見えてくるのではないかと。
 ローカル紙としての立ち位置を見定め、いわば「地域目線」から地域の声をいかに集め集約し発信し続けるか、そこに情報発信者と読者とを結ぶ信頼の絆が生まれてくるのではないかと。
 新聞という優れた活字媒体の復権をかけて、日々紙面作りに全力を傾けられている講師ならではの視点から貴重な「新聞論」をご講演いただきました。
 講演後は、参加者を交えローカル紙を通じた地域間の交流・連携や啓蒙手段としての新聞の可能性などをめぐって活発な意見交換が行われ、講演会を無事終了しました。
 当日は、20名の会員の方にご参加いただきました。
 御講演を頂きました辻岡様ならびにご参加いただきました会員の皆様にあらためて御礼申し上げます。

長野副会長閉会御挨拶
 
(次回の講演会開催について)
 次回の講演会は明年2月中旬頃の開催を予定しています。日時等が決まり次第、ホームページに掲載します。またメールアドレスをご登録いただいている会員の皆様にはEメールでもご案内させていただきます。
(北海道銀杏会講演会事務局 藤井文世)
 
(講演要旨)
「新聞は生き残れるか」
 昨今新聞が読まれなくなっている。「読者のわかりやすい紙面づくり」「専門知識のない人にいかにしてわかり易く伝えるか」、新聞の作り手がそれを意識していないと、新聞は購入されてもただ「積読」だけで読まれることはない。
 新聞の発行部数をみると、全体としても減少傾向にあるが、特にスポーツ紙の発行部数減少が大きい。最近の10年間でスポーツ紙は150万部、一般紙は30万部も発行部数が減っている。
 要因はいろいろ考えられるが、やはり生活に余裕がなくなってきていることが大きい。
 給与カットやリストラなどによる収入減、携帯電話の普及により1人1台保有すると家族4人で2万5千円の出費。またインターネットを使えばプロバイダーの費用が3千円かかるなど、今までにない出費も必要になってきている。
 スポーツ紙についていえば、団塊の世代がリタイヤして、駅売りのスポーツ紙の販売が落ち込んだ影響が大きい。また企業が費用節減のため職域購読を止めて自宅購読を勧めている影響もある。
 このように、スポーツ紙の発行部数の減少は明らかに経済的要因によるものであり、その影響はやがて一般紙にも及ぶだろう。
 そもそも新聞の特性の第一にマーケットが限られているということがあげられる。
 新聞の市場は国内の限られた市場であり、他の商品のように販路を海外や他地域に求めることが出来ない。北海道新聞についていえば、マーケットは北海道に限られている。
 少し前に「新聞のビジネスモデルは破綻した」という本が出版され、新聞業界に激震が走ったことがある。
 そもそも新聞のビジネスモデルは、「部数拡大により販売収入と広告媒体の力を強めて、広告収入を得て収益に結びつける」というものであり、電通の推計によれば、広告業界のマーケットの規模は6兆円弱で、GDPに概ね比例しているという。
 広告費の媒体別の推移をみると、ここ数年、新聞・雑誌・ラジオ・テレビという4大媒体の広告費が僅かに減少している一方で、インターネットの広告費は急激に伸びており、2〜3年後にはインターネットが新聞を抜くとも言われている。
 かつては、新聞を取って読むことはごく当たり前のことで、新聞を読まないのは「社会人としてはいかがなものか」と誰もが思っていた。ところが、今では社会人になっても新聞を読まない新入社員が増えてきている。
 若者の活字離れが悪いのか、活字媒体に読者を取り込む努力が足りないのか。
 新聞の特性として、記事に強弱・軽重が付けられるということがある。ここがインターネットと違うところで、新聞は「見出し」でポイントを示すことによって、コンテンツの内容を一目瞭然にすることが出来る。
 また新聞はネットと比べてはるかに正確な情報媒体だ。ネット上の情報は玉石混交であり、それを素人が選りわけることは極めて難しく、ネット上ではデマに騙されやすい。ある国ではネット上を流言飛語が飛び交い、また別の国では女優がネット上の誹謗中傷を苦にして自殺した例もある。
 それに比べると、新聞は極めて正確、精度の高い情報を流している。
 新聞業界はいわゆる監督官庁もなく、業法規制もない全く自由な世界だ。
 同じメディアでありながら、放送は放送法によって規制され中立公正な報道を義務付けられている。そのために、放送をめぐっては常に偏向か中立かが問題になる。
 その点、新聞には規制がない。放送は報道機関と呼ばれるが、新聞は言論機関と呼ばれ、そもそも中立とか公正である必要もない。それぞれの新聞が自己責任で記事を書く。その結果新聞は立場によって取り上げ方に違いがでてくる。
 道新で数年前道警の裏金問題のキャンペーンを張ったことがあるが、こんなことも新聞であればこそ出来ることだ。
そもそもメディアは「月光仮面」、正義の味方であるべきものと思っている。
 ところが最近の若い人にはそこが逆に見えているのではないか。
 某大新聞社の社長が政界と繋がっていて、その社長の政治的な発言が記事になったり映像になったりして流れてくる。それで新聞というものが若い人には「あちら側」のものと思われているのではないか。
 「強きをくじき弱きを助ける」はずの新聞がどうも「強きを助け弱きをくじく」存在に見られている。メディアが若者から誤解を受けているのではないか。
 新聞は今一度「強きをくじき弱きを助ける」の原点に立ち返らなければいけない。
 福田前総理が「国民目線」と言ったが、われわれも北海道の新聞として、「道民目線」で記事を書く。
 以前に論説委員として1次産業を担当していた頃、日本とオーストラリアのEPA交渉をめぐって、当時の安倍内閣がたいへん前のめりになったことがある。
 一般論としては「経済自由化はたいへん良いこと」。でも、それでは北海道は大いに困る。農産物が軒並壊滅的打撃を受けて、北海道の農業そのものが崩壊してしまう。
 EPAに三大新聞はこぞって賛成した。農業は自助努力で生き残れと。大新聞はそれで終わってしまう。
 ところがローカル紙はそうはいかない。地域にはそれぞれの地域の事情があり、われわれ地域のメディアは北海道という地域の運命共同体として、地域エゴにならない範囲で、道民の目線をもって地域の意見を打ち出す責任がある。
 そのために地域の声をどうやって集め、集約していくかが課題だ。
 ネットとの関係でいえば、ネットは知りたい情報を深く知るのにはたいへん便利で良いツールといえる。反面ネットでは、自分の興味のある情報しか引き出せないし、情報を広げることも出来ない。一方新聞は松華堂弁当のようなもので、そこにさまざまな情報が詰まっている。このようにまったく特性の違う媒体だからこそネットと新聞のコラボレーションも可能になるのではないか。
 広がりのないネット。それに対して新聞は誰もが同じ紙面を読む媒体。
 ひとつの新聞を一家みんなで読む。明らかにネットと違うこうした新聞の特性が、もっと見直されてもよいのではないか。新聞の側ももっとこうした新聞の特性をアピールして、あらためてその価値を伝えていく努力をするべきだろう。
 それでは新聞はこれからいったいどうなっていくのか。
 新聞は百貨店に似ている。百貨店には食品から遊園地まで揃っていて、以前に比べると流通業界での地位は低下しているものの、良いものはやはりデパートで買おう、「晴れ」のものはデパートで買おうと皆が思っている。
 それと同じように、新聞も「正しい情報はやはり新聞から仕入れよう」と誰からも思われる存在でなければならない。
 昨今「勝ち組」「負け組」という言い方が流行りだが、新聞はこれまでのところ企業再編などと縁のない珍しい業界。だがこれからはそうはいかないかもしれない。
 これからも生き残り続けていくために、いまこそ北海道の情報発信メディアとして地域から真に頼られる存在になるよう努力していきたい。
(文責 藤井文世)

 

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